寺脇審議官「完全オープン制」を語る/New Education Expo 2002

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 学校教育の「完全オープン制」に向けて 寺脇研・文科省審議官
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 今年4月から導入された新学習指導要領による完全週5日制、総合的な学習の時間
の導入などの教育改革をめぐり、それを推進する立場から寺脇研・文部科学省大臣官
房審議官が10日、「21世紀の学校教育はこうなる」と題して講演を行った。9日
から開催された「New Education Expo 2002」の基調講演の
ひとつ。身振り手振りを交え、歯に衣着せぬ物言いの寺脇審議官の話に、会場を埋め
た約250人の教職員、教育関係者は、熱心に耳を傾けていた。

 寺脇審議官は、今回の教育改革を、明治維新後、第二次大戦後に次ぐ3つ目の大き
な教育改革であるが、前の2つが急激な変化をともなって生じた改革であるのに対
し、今回の改革は1980年代からの臨時教育審議会の答申にある「個性の尊重」
や、「ゆとり教育」、「偏差値追放」などの流れの中にある改革であり、突然出てき
たものではなく不安を感じる必要はないと述べた。

 また、今回の改革のポイントを、教育の「完全オープン制」という言葉で表現し、
教育行政に携わる関係者や現場の教員に対し、親や地域社会への「情報公開」と「説
明責任」の徹底を求めた。

 これまで公務員は文部科学省も含めて、閉ざされた空間の中、緊張関係の欠如の中
での業務の遂行のため現実社会との間でズレが生じたとの認識と反省をふまえ、公務
員である教員も「パブリック・サーバント(公僕)」として、「完全オープン制」の
もとで家庭や地域社会と話し合いを持ち、よい「緊張関係」を持って仕事をするよう
に変わらなければならないと強調した。

 さらに、「完全オープン制」を遂行するための方策として、10年かけて各教室に
テレビカメラを設置し、いつでも親が子供の教育状況を把握できるような環境作りも
必要であるという持論も展開した。

 一方、親や地域社会に対しても、本来家庭や地域が責任を持つべき教育機能を学校
に押し付けずに、例えば学校週5日制の問題でも、週末の過ごし方など子供の教育に
もっと関心を持つように変わらなければならないと注文をつけた。


【ひとこと】
【引用】さらに、「完全オープン制」を遂行するための方策として、10年かけて各教室に
テレビカメラを設置し、いつでも親が子供の教育状況を把握できるような環境作りも
必要であるという持論も展開した。【引用終わり】
最近、大阪の事件以来、学校にモニターカメラを設置する動きが出てきた。
実際に設置されているところも出て来ている。
不審者の立ち入り監視には有効な手段となっている
モニターカメラを一部の保育園や幼稚園では教室や保育室に設置し画像を保護者に公開するところも出てきた。
寺脇氏の述べる「公開」が実現しつつある。
昨今の、いじめや虐待が流行る状況では親の心配の種は尽きない。
直接子供の様子を見たいと言う保護者の要望もうなずける。
寺脇氏のこの辺のニーズに対する対応は敏である。
ところで、親の心配と言えば、最近直木賞作家の山本一力さんの「あかね空」という本を読んだ。
妻が図書館に予約して置いたのだがやっと順番が来て借りてきた。
コタツの上に置いてあったのを2晩で読んでしまった。
その中で、丁稚に出た息子を心配して、母親が息子の住み込み先が見える橋の上に立って息子の様子を何日も眺めるところがあった。
息子は、同僚から「また今日も来ているよ」と同僚や先輩から揶揄され、恥ずかしさと口惜しさで、喧嘩になって、袋叩きにあってしまう。
皆が楽しみにしている年に一度しかない家に帰る機会である「薮入り」を自分から断ってしまう。
親方からそれを聞かされた父親は、母親に今年は「薮入り」には帰らないと告げる。
母親は、父親がいじわるをして仕組んだと思って父親をうらみなじるというストーリが展開される。
母親が心配で心配でたまらないという気持ちと、心配だから見に行く事が良い事なのかどうか考えさせられる。
時代は江戸時代、今日の事情とは大分違ってきているが一面の真理を含んでいるのではないだろうか。
モニターカメラで覗きたい気持ちは分かる。
しかし、覗かれる子供は教師の気持ちはどうなのか。
覗かれる事によるストレスはないのか。
モニターカメラを設置する業者に聞いてみた。
ストレス防止のためにカメラに映らない死角を作って置くそうである。
やはり息抜きがなければストレスがたまってしまうだろう。
学校の公開と言うのは、本当に物理的に教室をモニターする事なのか。
モニターで見せる前に「まかせて安心」という相互理解が大切なのではないだろうか。
教室を映すよりも、職員会議の中で何がどのように話し合われているのかを公開する方がもっと重要なのではないだろう。
学校の方針なり運営がきっちりしていてそれが実施されている事が確認できれば「まかせて安心」となるのではないか。
話が小説のはなしに戻るが、息子はそんなこんなで博打にのめり込み身を崩してゆく。
母親が、最後に幼馴染の「火消し」の政五郎という親分のところにまかせることによって息子が真人間になったところで小説は終わっている。
やはり教育は離して育てるところにありそうである。
学校公開と言う面から考えれば、例の学校評議員である。
校長が推薦して教育委員会が決定すると言うのでは公開した事にはならない。
校長なり、教育委員に都合の良い人間が選ばれる可能性が大きいのである。
選考基準の中にどうしても校長なり、教育委員会から見た価値観が反映してしまう。
曰く人格識見との素晴らしい人である。
しかし今日の教育制度はそのような人たちが作った結果であることを忘れてはならない。
学校の評価をするというのでであれば、その結果は、普通の人が納得するものでなくてはならないのである。
学校を公開するのであれば誰に対して公開するのかと言う問題をクリアーにする必要があるのである。
私は学校公開はお金持ちの人にも、普通の人にも、家庭教育もままならない人にも公平に公開される必要があると思うのです。
校長先生に推薦を任せるならば、そこそこの教育があり、生活にもある程度の余裕がある人しか選ばれないと思うのです。
そのような中では現状肯定的な意見しか出てこないのではないか。
ここで一つ提案しておきたい。
選挙では声の大きい人に引きずられる。また特定のエデオロギーでかき回されるということも出て来る。
自由と民主主義の先輩であるアメリカでは面白い制度がある。
権力の最たるものとして裁判があるが、その裁判において、民意を反映させる見事な制度があるのである。
陪審員制度と言うものがいうものがあって、無作為に選ばれた一般の市民が有罪か無罪かを決定する仕組みになっている。
日本では、浅原裁判の例で見るように、職業裁判官にまかせているので6年の歳月を経て、3億円もの費用を掛けてやっと折り返し点に差し掛かったに過ぎない。
アメリカの場合は実に合理的に陪審員制度によって解決している。
その合理的な制度を教育の評価に使えないかと思う。
学校評議員を無作為に学校区の住民から抽選で選ぶ方法はどうだろうか。
あらかじめ学校の先生とか学校に利害関係を持っている人は名簿から外しておくのである。
一見不的確と見える人やが仕事が忙しくて嫌だと言う人が選ばれるかもしれない。
しかし、市民を信頼するところから民主主義が始まる。
また、徴兵制がないわが国にあって市民が応分の負担を負うのは市民の義務である。
こどもは親の子であるとと同時に、次の時代を担う宝である。
小手先ではなく、より多くの市民が教育に参加できる制度を考えたほうが良いと思いますが貴方の考えは如何ですか。

(平成14年5月18日 金山 武)


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