台湾の母校を訪問/松山市

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[門]懐かしい台湾の母校を訪問 松山市 上田淳(66)

2002.12.13 愛媛新聞社 朝刊 こだま (全444字) 


 ◇戦前、台湾の嘉義市の日本人学校(旧名「若葉国民学校」)を卒業、在学していた人たち約五十人が十一月初め、今は垂楊国民小学校となっている母校をそろって親善訪問した。訪問の目的の一つに、若葉園を見ることがあった。

 ◇若葉園とは、旧日本時代の校名にちなみ「若葉園」と刻んだ石碑を中心に校庭の一角に造られた庭のことである。三年前の台湾大地震のときには卒業生一同が見舞金を送った。垂楊小の潘校長は見舞金を日台親善に使うことを決意され、校庭に「若葉園」を造ったのだった。一部に批判の声もあったが、PTAや地元の協力で完成した。園の中央には、当時職員室の前にあった鐘がつるされていた。

 ◇小学校の教育目標は、「培育新世紀具競争力的国民、営造健康、快楽、安全的学習環境」である。当時のわれわれの校訓「真面目に、元気で、朗らかに」と相通じるものがあってうれしかった。市長や教育長も、われわれを歓迎するため来校された。至福に満ちた訪問行事を終えたわれわれは、母校の発展を祈りながら校門を後にした。


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この記事は投稿のようであるが、「戦前、台湾の嘉義市の日本人学校」となっているが、誤解を招く記述ではないだろうか。
日本人学校というと、外国にある日本人の駐在員ないどの子女を対象とした日本学校を連想させる。(現在の日本人学校は日本人専用ではなく、希望する外国人も受け入れているところもあるが)。

台湾は戦前50年間日本領土であり、台湾の人たちは日本人であった。
そのような意味では、学校区の中の台湾出身者も内地出身者も共に通う学校であったはずである。
特に内地人専用の意味での日本人学校というものがあったわけではない。
そのような意味から言えば、日本人学校という表現は不適切ではないだろうか。

私は、観光ビザで台湾に行った事がある。
台湾の家庭に招かれて、食事をしたり、温泉に一緒に浸かったりした。

色々な人にあったが、元からの台湾に住んでいた人は、日本時代を懐かしみ、平等な教育を受けた事に感謝している人が多かった。

終戦間際に、中国の国共内戦で敗れた中国国民党軍が台湾になだれ込み、元から居た台湾人の家を取り上げ、土地を取り上げ占領したのである。

その後、長い間戒厳令により軍事独裁が行われた事は、台湾も中国本土も同じである。
私が、台湾に行ったときはまだ、戒厳令下の台湾であった。
列車の切符売り場の窓口も軍人用と民間用と別れていた。
切符売り場には、憲兵が立っており、監視していた。
軍人が優先的に乗車できる仕組みらしかった。
街中のいたるところに憲兵が目を光らせていて、緊張を強いられた。

台湾に元から居た人々は差別され、公務員に採用されることも殆ど無かった。
私と、話している間も、台湾の現状を話すときはひそひそ声であった。
多数の台湾人が、軍事独裁下で殺された。
特に、日本内地で高等教育を受けたものはマークされ公職にもつけなかったり暗殺されたりもした。
そのようにして中国人による台湾統治が行われていた。

最近になってやっと民主化され、現地語の放送も行われるようになったが、中国出身者が幅を利かせていることには変わりがない。

台湾の校長先生が、日台親善のために庭園を造られたのも、日本統治時代の日本への親近感も影響しているのではないだろうか。

先ごろ、慶応大学の学園祭に台湾の前李登輝氏を呼んで講演をする計画が、大学側の圧力で中止になったという報道があった。

李登輝氏は、台湾で長い間中国の支配に対して戦ってきた人である。
中国共産党政府からの圧力で、大学側が学生組織に対して講演中止の圧力を掛けたとしたら、地下の福沢諭吉も嘆くであろう。
学問の目的は権力に阿るものではない。
脅しに屈したのであれば、ずいぶんひ弱になったものである。

この辺のことは、投稿を審査する記者にも勉強してもらいたいものである。
そうすれば、台湾の戦前の日本人学校などという表現は出てこないと思うのだが如何でしょうか。

(平成14年12月16日 金山 武)


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