青奉あれこれ
      金山 武(きんざんぶー)
 先日、会社の電話をとったら、「もしかして青奉の金山さんじゃない」と言います。そうで すよと言うと、当社から流れていった名簿を見て、「きんざんぶ」と読めるので、もしかして 昔一緒に活動した仲間ではないかと懐かしさの余りに電話したと言います。
それから延々30 分以上も昔話をして再会を約して電話を切りました。
 彼は、私より一つ上で、群大工学部分団で活動していた人で、私はその当時高校を出て直ぐ の社会人で、伊勢崎分団やら太田分団を行ったり来たりしていました。
 青奉の会議に伊勢崎から前橋まで自転車で通ったこともありました。
 会議が終わった後、先輩達の後ろにくっついて、喫茶店でのダベリング、これが楽しかった。
進学を断念しての就職だったので尚さらだったかも。青奉の仲間は本当に差別無く扱ってくれ ました。
 昭和36年入団、その後、栃木の宇都宮に転勤、栃木青奉の委員長をさせてもらったことも、 一旦群馬に帰って。39年に東京転勤青奉の仲間が一晩泊まりで引っ越し手伝いに来てくれま した。
 東京地区を創って群馬出身のJRC卒業生の集まりを作ったり。
 東京青奉の客分として、社協のボランテアサークルの連合会の仕事をしたり。
 そのころ、「青奉の主要行事であった平磯の夏期児童保養所の手伝いをしていた青奉の仲間 が、海に流され行方不明」との電話が深夜寮に入って、平磯に急行し、何日も海岸べりを双眼 鏡片手に捜索しました、
遂に発見の報あり、日赤茨城県支部の緊急車で現場に到着。翌朝遺体 を収容するまで暗い海岸で一緒に夜明かししたこともありました。
 時あたかも、学園紛争花盛り、思うこと有って、「ボランテアじゃーなる」という雑誌を創 刊しました。取材は土曜日、日曜日を使かい原稿書きは、中央線の高尾から新宿までの電車の 中で書きました。
 朝日新聞の書評欄で詩人の谷川俊太郎先生が誉めてくれたのですが、購読者が殆ど集まらず 4号でダウン、貯金を全部使い果たし、購読料を踏み倒して、都落ち。昭和46年に群馬に転 勤。
青奉にも何回か顔を出したが、仕事の方が面白くなって足が遠のき自然退団。  青奉は、私にとって青春そのものでした。
 世の中に出てみると、発想が全然違うわけで、正に弱肉強食、利己主義の固まり。  そんな中で、生きて行くのは辛いけど、「積善の家に余慶あり」で4人の子宝にも恵まれ、 家も2軒持ち、別荘の敷地も確保し、PTA会長も仰せつかり。会社ではまあ係長止まりで、 まあまあの暮らしをしております。
 最近、2女がインターアクトと言うボランテイア活動も行っているようで何か嬉しい気分の 今日この頃です。
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