おかげさん


 先日「おかげさん」という本をみさせていただいた。新潟のある会社が20周年の創立記念に、記念品として配ったものである。作者は「相田みつを」さんと言い、栃木県足利市に生まれ、曹洞宗の禅僧に師事し仏法を学んだらしい。写真にあるように大変すばらしい書と文章の写真集です。

その中で、写真にのせた書のページに「人間宣言」と言う文章がのっています。
少し長くなりますが、引用します。

 人間宣言

 天上天下

 唯我独尊

 お釈迦様は、生まれるとすぐ、四方に七歩あるき、右手で天を指し、左手で地を指し、このように唱えたと言われております。いわゆる誕生謁(誕生の時の詩句)です。お釈迦様を美化したい願望からつくられた説話でしょう。

これは、お釈迦さまの人間宣言ですね。文字通りに解釈すれば、
「この世の中で一番尊い者は自分だと」ということになりますが、そんな自己中心的なうすっぺらなものではありません。

自分のいのちが尊いから

自分以外の、すべての他人のいのちが

自分のいのち同様にみんな尊い

それが唯我独尊だとおもいます。

 このように相田氏は語っています。

 仏教の経典は釈迦の死後500年から700年にかけて出来たといわれています。

お釈迦様が語った言葉でも一人一人受け取りかたが違うわけです。

 さて、お釈迦様が人間宣言されたのかどうか。検証してみましょう。

 お釈迦様が病になり、死のの床にあったとき。知恵一番の「迦葉(かしょう)仏」が「先生、あなたのように大勢の人を救ってこられて善根功徳を積んでこられた人でも死ぬんですか」と言って嘆いたというんです。

そのとき釈迦は、「お前は今まで何を見てきたのか、私は、実は久遠の昔、宇宙が出来る前から、修行を超えて、修行以前から悟りを開いているところの仏である」と語ったというのである。

「そうだよ、私も唯の人間だよ」とは言っていないのである。

 色んな国を経て、色んな言葉に翻訳されて、色んな人が解釈して本質が分からなくなってしまうことがある。

 笑い話で「東京オリンピックで、アフリカの選手がお土産に、水道の蛇口を大量に買って行った。そんなに沢山買って何にするのかと、聞いたら、これはひねるだけで水が出てくる素晴らしい魔法の機械だから、親戚中に配るんだ」と言ったというのである。

 水源地に繋がなければ水が出ないことは誰でも知っている。ところが、人間となると、肉体を人間だと思う過ちを犯しがちなのである。

 「いのち」があって、人間になるのである。

 天上天下唯我独尊というのは、釈迦族の王子と生まれ八十何歳かで死んだ、釈迦という人間のことではなく、釈迦に宿るいのちの事、もっと分かりやすく言えば釈迦の誕生にかけて、仏法誕生の意義を説いているのである。

  私の「ことば」は、全宇宙に並ぶべきもののない真理である。たった一つの尊い「ことば」である。すなわち宇宙の根元神の言葉であるという一大宣言ととるべきなのです。

 ある、バイオリニストが家を売って、何億もするバイオリンを買ったという話しを聞いたことがありますが、美しい音楽を奏でるには、バイオリンが必要ですが、バイオリン奏者も必要なのであります。

 正確には、バイオリンだけでも、奏者でけでも、奏者とバイオリンだけでも駄目で、音響効果の良い会場があって、それを聞く観客が居て、もとっと言えば、バイオリニストを育てた先生がいて、何百年も前に名器を作った職人がいて、そのまた親方がいてというように、途方もない物事が丁度良い具合に集まって良い音楽になるのである。

 そこに鳴り響く音は、奏者がならしているのでもなく、バイオリンがなっているのでもなく、永遠の前から宇宙に鳴り響いている「ことば」そのものが鳴り響いているのである。

 丁度良い具合にすべてを集めて「鳴り響いているもの」
 天上天下唯我独尊とはその「鳴り響いているもの」がこの宇宙のなかで、比べのものもない尊いものだということを言っているのである。

 世に教祖や、予言者と言われるものは、バイオリンやラッパのように、宇宙の響きに共鳴して、言葉に翻訳して伝えて居るに過ぎない。

 釈迦が語ったから尊いのではなく。キリストが語ったから真理ではなく。宇宙の真理が語られているから尊いのである。このことを間違ってはならない。

 良く、宗派の継承を教祖の子孫が継承することがあるが、教祖そのものに値打ちがあるのではない。子孫だから偉いのではないのである。

 宗派は宗派であって、真理そのもではないのである。

 空き缶でも奏者によっては立派な音楽になるし、バイオリンの名器と言われるストラスバリューでも下手が引けば、聞くに堪えない音を出す。

 弾き手と楽器を間違ってはならないのである。

 お釈迦様が語ったから尊いのではなく、お釈迦様の口を借りて語られた真理が尊いのである。お経はお釈迦様の死後、別な人によって編纂されたのである。編纂した人の受け取りかた、翻訳の仕方で色々な説かれかたをするが、元は一つであることを忘れてはならない。

 「ラッパは空っぽでなにもない、しかし、よき吹き手に逢えば、良き音色をだすのである。」

 「人間は、人間宣言してもしなくても、人間である。神は、人間宣言してもしなくても、神である」

       (平成9年9月28日)