教科書が教えない...


 先日、某新聞(その新聞のコラムが、良く大学の入試問題に出るということで、高校の先生から購読をすすめられる新聞だそうだが、私は小説が面白い別の新聞をとっている)の読書欄に鵜飼正樹という社会学者氏が、藤岡信勝/自由主義史観研究会「教科書が教えない歴史」シリーズについてのコメントを書いていた。

 曰く、『近代日本を作った人々を肯定的に描くという意図が余りにも見え見えで、全体的としては、著者達が批判する「自虐史観」と同じぐらいに単調に感じられる。

 例えば、私の年配の知人に、戦前純真な愛国少年だったというAさんがいる。ところがこのAさん、ちょっとばかり勉強が出来すぎた。それで、日本神話の原点「古事記」にチャレンジした。すると、いきなり出くわしたのが国生み神話。「我が身の成り余れるところを、汝が身の成り合わぬところにさしふたぎて...」。Aさんの目の前のウロコは落ちまくる...。』と書いている。

 この記事を見て思い出したのだが、丁度私が、中学生に入ったころ。2年になると日本史(社会科かな)に「古事記」があって、例の話しが聞けるらしい。先生がどんな顔をして教えるのかと悪童どもと大いに期待していた。しかし、2年になって教科書を見ると、どこにも書いてない。

 悪童達大いに残念がって、女先生に「古事記」て、どんな本と、根掘り葉掘り聞いては、先生の表情を楽しんだものである。そのときの、先生のはなしでは、古事記は後の権力者が都合よく歴史を書いた本で実在のものでは無いと説明された。

 それっきり、「古事記」のことについては無関心であったが、古事記の作者の名前が彫られた銅板が発見されたという新聞記事を見て。あの時先生は嘘を言ったと感じたのである。

 もう一つ、3年前、私の息子が、小学校の6年生の時の授業参観で、同じ国生みの話しで、『「天のヌボコ」から、落ちたしずくが日本列島になった』と言う話しを取り上げて、戦前には、この話しを事実として教えないと、先生が逮捕されて、監獄に行ったと言う話しをして、一生懸命、「古事記」が戦前の時代に権力者に利用されれた、悪い本だと強調していた。

 「古事記」のことになると、なんとなくうやむやにするか。たいしたことは書いてない、とはぐらかされたり。戦前の教育の誤りの宣伝にされたり。

 「古事記」が、ある面で、純粋に学問としてだはなく、政治性のある問題として、政治性のある学者の間では、問題になっているらしい。

 いずれにしても、日本人の神話なのに学者の論争の道具にされられて、一般の人々には近寄りがたい存在にされてきたようだ。

 ところで、鵜飼氏は、くだんの文章を、「多分出版されるであろう『新しい歴史教科書が教えない歴史』には、ぜひともAさんの話しを収録してもらいたい。」と言う言葉で結んでいる。

 「新しい歴史教科書」と言っているからには、歴史教科書が変わると思っているのだろうか。
 しかし、変わったのをまた変える積もりらしい。
 この、しつこさ、しつこくなくては、学者はやってられないか。
 しかし、その心は、色々な団体や、某国の支援も受けて、『新しい歴史教科書』はつぶしたいのが本音ではないだろうか。

 ところで、神話の中で「アマテラスオオミカミ」が、お隠れになって、世の中が真っ暗になったという話しがあるが、日本の神話が教科書からなくなって(隠されて)、良き日本が無くなったような気がする。

 私は、まだ、その「教科書が教えない歴史」を読んでいないが、必要なものはのせた方が良いのではないかと思う。

 学校教育では、バランス良くのせる必要があると思うのである。
 教科書が単調なのは、今まで、片方の主張だけ載せてきたからではなかろうか。
 首尾一貫と言うことも大切であるが、バランス良く教えることも必要なのではないか。  如何に、力んで見ても50年と持たない学説であるならば、色んな可能性をバランス良く教えて、楽しくした方が良いのではないか。

 現在の教科書には面白い話しが余りにも少ないような気がする。

 やはり、わくわくするような内容が、教科書には、必要な気がするのだが、イデオロギー学者との論争が済むまでは、我々先祖が生んだ神話を、素直に、子供たちを触れさせるのは、無理なのだろうか。

 (平成9年10月20日)