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司法の国際化と開かれた教育


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司法の国際化と開かれた教育
先日新聞をみていたら、面白い記事を見つけた。
なんでも南米チリの元大統領ピノチェト氏をイギリスの官憲が逮捕して、スペインに引き渡す決定をしたというのだ。そんなことがあるのかと驚いたが、もっと驚いたのがその裁判がイギリスの上院(国会)で行われていることである。
上院から5人の裁判官が出て判断した。11月25日の判断では是という判決が出たが、裁判官の一人が中立でなかった。国際アムネスティの関連団体の会長をつとめていたことを隠して審理に参加していたことが分かって、裁判のやりなおしの申し立てが有り、やりすかどうかを審議する裁判が、やはり上院の別な5人によって審議され、やりなおすべきだという判決を下した。そして現在また、別な上院議員によって裁判が行われている。
ここで興味を引いたのが、イギリスでは上院が最高裁判所だという事である。
完全な3権分立ではないという事である。
日本の場合は国会が裁判官を弾劾する弾劾裁判所によって、最終的に司法に対して世論の反映を行う事になっているが、それは個々の事例について行われる訳けではなくて、裁判官の非行とかごく限られた範囲でしかない。
ところがイギリスの場合は、上院が直接裁判している。
昔、司法は王権に属していた。
王権との対立の中から、民主主義が発生した。
その過程で司法権が民権の代表としての上院に移ったものと考えられる。
日本の場合は、王権との深刻な対立なしに、民主主義が与えられた。
従って、王権の延長としての司法が実態として残っているのではないだろうか。
最近、少年法の改正がとりざたされ、14歳以上に刑事罰を課すような案が出っている。、実は少年法の改正は、22年間も放置されてきた。
放置されてきたというより、弁護士団体が審議に参加しないという妨害行為で、そのまま放置されて来たように伝わっている。
開かれているようで、司法は国民の前にひらかれていない。
法律専門家の権威が王権のようにまかり通っている。
法律家しか分からない論理、長期裁判、裁判のための裁判が多すぎないか。
司法がなんの為にあるか、誰のためにあるのかもう一度考える必要があるのではないか。
陪審員制度の導入など民意の反映が司法の分野にも反映されるべきである。
民衆が直接裁判に参画していれば、少年法にしてももっと早い改正が出来ていたのではないか。
いたずらに裁判を引き伸ばすような裁判は、陪審員の心証を悪くし、期待した判決が得られないところから、自然と少なくなるのではないだろうか。
専門家だけの判断には落とし穴がある。
現在の憲法9条問題にしても、陪審員制度があれば、もっと早く、違憲判決がいっぱいで出て、憲法改正の動きが早まったのではないか。
現在の解釈憲法での運用には無理があるのは、一般人なら誰でも思っていることである。
案外革新と言われる人たちは保守的で、専門家的発想を好む傾向にある。
誰の目にも破綻しているものを後生大事に、裏取り引きで守っている。
そんなところに正義も、説得力もない。
八百屋や魚屋のおやじでも分かる司法にしてもらいものである。
もう一つ、王権の延長として、教育がある。
学校は専門家集団の密室のように感じている人が多いのではないだろうか。
国家の教育権などと言う人がいる。実態は先生の教育権である。
先生の一方的な思想信条を押し付ける場になっていないだろうか。教科書の中身や表現を如何に議論しても無駄である。
副読本という形で、教科書とは違う事をどんどん教えている。先生個人の選択というより先生が所属する団体の考えがそのまま教室で教えられている。
先生が教室で教える内容は誰もチェック出来ない。直ぐ、手ひどい反撃をくらうからである。
あたかも、ガリレオガリレー気取りで、自説を教えている。これも王権の変形ではないだろうか。
従って、親は自営手段として、私学や塾を必要とする。
登校拒否も、いじめが原因というより、深いところでは、人を愛し、国を愛するする事を禁じられ、江沢民にひれ伏することを強制され、同胞と戦う事を強制される事に拒否反応を示している事もあるのではないか。
思想の暴力にたいする拒否反応なのではなだろうか。
教育委員は直接選挙で選び民意の反映を行う必要がある。
現在の官選の委員では役人の操り人形でしかない。
ある新聞に、図書館の本が偏向しているとの投書が載ったことがある。その図書館の館長の返事が次に載ったが、「職員で充分審議して選定しているから心配ない」という趣旨の回答をしていた。何おかいわんやである。職員が偏向しているから、偏向した図書が選択されるのである。
図書館の運営委員会も、あってなきがごときである。すべてが官選だからである。
難攻不落と言われる城ほど、内部からの攻撃には弱い。特定の思想信条を広めようとすれば、役人になって潜り込む方法が一番である。有名大学を出て、7回先生の試験を受けて先生になった人を知っているが、やはり活動の拠点を学校の中に築いてしまった。
ボランテアの役割の一つとして、専門家が陥りやすい独善を防ぐ効果が説かれて来た。
PTAなども、先生との接触の中で、世間の風というか、民意の反映というか、そんな役割があるのではないだろうか。
外部の人間が常に学校に出入りする。
そのことが、学校の密室化を防ぎ、独善の毒から子供たちを守る事に通じるのではないだろうか。
あらゆる面で、専門家集団の密室を作らないようにしなければならない。
教育分野では、徐々に民意の反映が行われて来ている。
経済の国際化の次は、陪審員制度など、司法の国際化が待っているように思える。

(平成10年12月30日朝 金山 武)