目的は手段を正当化しない


 先日、広島の高校の校長が自殺した。

その事によって、俄かに国旗、国歌の法制化が動き出している。

彼が自殺する前に、4人の教諭が自殺している。

校長が自殺する前に自殺した教諭は、自ら学習指導要領に定められた、国旗、国歌の大切さを授業で取り上げたという理由で、教育委員会に呼び出されて反省文を強要されての事だったらしい。法律を守るべき教育委員会が、広島県においては、当時逆の動きをしていたようだ。

また、組合や部落開放同盟による、糾弾も行われたらしい。

この事は、国会中継をたまたま聞いたので知ったが、マスコミはこの事を殆ど報道していない。

 校長の自殺した原因と先に自殺に追い込まれた教諭の状況は異なるが、そこに、組合と部落解放同盟による糾弾が引き金になっている。

 また、校長は生前「口がさけても言えない事がある」と周囲に漏らしていたらしい。

校長の死後、韓国からかの校長が引率した修学旅行で、韓国のある公園で生徒たちにひざまずかせて先に戦争についての謝罪文を読ませていた事実が流れてきた。

おやおやである。

先ず、広島県においては、社会党の教育長がいた時代に法令違反の指導が多々行われていたという事実である。

教育はもとより、政治的に中立であらねばならない。

広島で学んだ子供たちが他の地域と正反対の事でよいはずがない。

今回、文部省の指導が入って現場に軋轢が生じた。

特に、組合および部落解放同盟が一体となって抵抗した。

自殺した校長がどちら側に立っていたのか分からないが、教育委員会側の圧力のせいだったのかどうか。教育委員会から責められたって、退職すればすむ話である。

組合と部落解放同盟による糾弾が響いたことは容易に想像がつく。

彼の人生においたは、一時的にせよ、組合側の主張に沿って行動をしてきた。

今後の人生を裏切り者として過ごす人生に恐怖したのではなかろうか。

ここにおいて、彼は死を選んだ訳けだが、自殺という手段は弱者が勝つための手段として用いられてきた。

ベトナム戦争において、僧侶の焼身自殺が全世界に報道されて衝撃を与えた。

いじめ問題も自殺者が出て、社会の問題になった。

自殺という手段は、自分に対する犯罪である。

汝、殺すなかれ。

自殺によって動かされた結果は良くない。

ベトナム戦争の結果、何十万人というボートピープルを生み、南ベトナムの人民ががそれによって解放されたかというと、一党支配の牢獄状態が生まれただけである。

いじめにしてもいまだ解決にいたっていない。

何故か、目的は手段を正当化しないのである。

手段によって裁かれる世界がある。

いくら良い事でも、強制は良くないのである。

一党支配は必ず社会にゆがみを生じる。

なによりも、進歩を阻害するのである。

我々は、自殺を評価してはいけない。

自殺を契機に物事を判断してはいけないのである。

そのような、意味で、今回の国旗国歌の法制化は良くない結果を生むように思える。

50年間待てたのだから、あと100年、待てば良いのである。

あと、一握りのもののために、料理をまずくする必要はない。

一握りの塩が入るおかげで、料理の味が引き立つのである。

常に反対者がいる社会が健全な社会なのである。

手段において正当性があるものが、最後には勝つのである。

先日、江戸東京博物館を見てきたが、徳川氏において何故か将軍の血統が絶えている。

ところどころで、養子をもらってつながっているのである。

天網恢恢疎にしてもらさずである。

(平成11年5月5日 金山 武)