卒業式に行って来ました

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本日(3月24日)二女の大学の卒業式に行って来ました。
国家も神もいなかった。
チャペルで行なわれた卒業式、父兄は別の教室でテレビ中継を見るだけ。
雰囲気が出ない事この上なし。
二女の入学式は横浜の国際会議場で出席した妻が感激して帰って来たが
三女も二年前に入ったが、その時の、入学式も分裂になったようだ。
妻は、分裂じゃ詰まらないといって来なかった。
開始時間の10時を過ぎても始まらない。
スクリーンの前で、なにかしゃべっている。「学生が入らないので10分ぐらい遅れる」と言っている。
おやおや。
10分過ぎても始まらない。
学生に建物の中に入るように促しているのだが、写真をとったり、話しをしたり、どこかの成人式よろしく一向に気にしない。
ひな壇に並ぶはずの教授達も入場しない。
やっと15分になって、教授達がひな壇に並ぶ。
司会の女性が、着席しなさい、静かにしなさいと叫ぶ。
「始めましょうか、もう少し待ちましょうか」の内緒話がそのままマイクに入る。
結局始まったのは18分過ぎ。
賛美歌と聖書朗読、祈祷にはじまるキリスト教式卒業式。
そこで話されるキリストの精神。
それがどれだけ学生に伝わっているのか。
本来真理など炉言うものは一度聞いたら、わくわくして次ぎを聞くのが楽しみのはずだ。
学生に取って魅力的な式になってないようだ。
昔聖書を読んだことがあるが、今の聖書は口語体になってしまって
文語体の持っていた韻がなくなってしまって、なんとなく軽くなった感じがする。
大場学長が、しゃべりはじめた。
少し吃音、大汗掻いてしゃべっている。
マタイによる福音書第6章30〜34番を引用して。
「「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。」と語りかける。
学生には浸透していないようだ。
会場は、まさに着飾った学生達が殆ど。
うちの娘には、今もっているリクルートスーツにしてもらったが
有名ブランドのバックを持ちたいと言って電話をよこした。
いそいそと宅急便で送くる妻。
電車の中でも、女子学生の、和服と袴とブーツの「ハイカラさんが通る」スタイルの娘が殆ど。
男子学生にも羽織袴の者も居た。
古き良き時代への回帰現象か。
壇上で説かれる精神と、会場の学生の実態との乖離。
信仰は生活に有りというがどうも身についていない。
国も無く、信仰もなくこれからの激動の世界をどう切り開いて行くのか
そんな不安がよぎる。
つづけて、大場学長は、校歌(島崎藤村作詞)の
「霄(そら)あらば霄を窮(きわ)めむ
壌(つち)あらば、壌にも活きむ」
を引用して、「壌あらば」を自分自身が立つ大地
「壌に活きむ」を弱者に対する奉仕であるとして、学生諸君に弱者に対する奉仕を説いておられた。
そこのところは、私の意見とは違う。
わたしには、霄は、神であり、壌は大地であるけれども、神が顕わした物質世界、そこから派生した、人間が作った制度や国家ではないかと聞いた瞬間に思った。
藤村がどんな意図で書いたか知らないが
今日、弱者に対する救済は単に篤志家によるボランテア活動だけに依存する分けにはいかない。
人が依って立つものそれが国家である。
国家が単なる福祉を維持する装置になって50年。
国家の本来の役割は、建国の理想にあって、国民の全ての行動を律する規範となるものである。
そのような意味で私は壌(つち)を国家と読みたい。
「国あらば、国にも活きむ」ぐらいの方が良いのでは。
国家を維持するのはその中心理念であって、それがない国家はやがて滅びていくのである。
弱者に対する福祉もその理念の結果としてもたらされる物である。
これからの若者には、国家の中味を如何に良くするかと言う意味での貢献を期待したい。
理念の悪い国家を持った民衆が如何に塗炭の苦しみを負うか。
世界中にその事例がころがっている。
続いて壇上に立った久世学院長は祝辞の中で次のように述べられた。
最近の不祥事の多発は、モラルの欠如。それは、繁栄がみたらす当然の結果であると説く。むしろ、今まで腐敗しない支配層や官僚をもっていたのは、世界の不思議であるということで、その理由を世界中の学者が研究してきた。
その結論として、日本の教育が天皇に対する信仰の教育であり、教育勅語にはじまる徳目教育が日本のモラルを維持し、反映をもたらしたバックボーンであったと説かれた。
ああ、なるほど。
現在の数々の不祥事は国家というタガが揺るんだ結果であり、そのタガの引き締めとして国旗国歌が教育の中に導入されたと説く。
ああ、なるほど。そうなんだ、国旗、国歌を学校に入れるということは、国家を学校に入れてモラルを高める狙いがあったんだ。
頭の良い人がいるんだねー。
久世さんの話しは、教育に国家が入ってくることには、反対しなければ成らないというニュアンスの主張であった。
そのとき私が感じたのは、そんなに教育勅語というものが効果があったんだという驚きであった。
廃止されてから、50年もその効力を維持してきた。
これは神業。
その、教育勅語が廃止されて、戦後新しい教育基本法が出来、あたらしい教育の目的が示され、教育勅語世代を乗り越えるモラルが国民に浸透させるべく努力してきたわけだが、、良くなったかというと、どうもそうではない。
外国並に駄目になったというのが正しい。
数々の不祥事、児童虐待、保険金目当ての殺人など自己中心的な考えが跋扈し、モラルの低下は目をそむけさせるまでになった。
それらは、みな外国からの輸入である。
天皇信仰と戦ってきた、キリスト者によって教育されたはずの若者が
天皇教育で育った世代の人達とくらべて、その立ち居振舞いにおいて良くなったであろうか。
「木の良し悪しはその果実にて知れリ」
どうも、ノーである。
久世さんの話しで、教育勅語のもつ優位性が改めて確認できた。
普遍的な真理が含まれ、大衆にも分かりやすくこなれていた。
それならば、何ゆえ50年もかかってキリストの教えが根付かないのだろう。
信仰の基本は、神とその映し身としての人に仕える事から始まるのだけれども。
自分達の団体が、国歌よりも偉く、国家に対して、不服従を説いた段階で
神の教えに反してしまったのはないかと思う。
国歌観の違い。
国家と神を対立するものと考え、キリストと天皇を対立するものとして考えるところに誤りがある。
国家は神の機能が具体的に現れたものであり、天皇は神であり、言うならば、キリストの再現であることが理解できないうちは、その対立は続く。
対立している間は、神の恩顧を受けるレセプターとしての平和が失われて、神からのメッセージを聞くことは出来ない。
闘争の地獄に落ちてしまうのである。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
神の義のところに(ぎ)とルビがふってあるんだけれども、そこは、神の義(義)と読むよりも神の義(ただしき)を求めなさいと読んだ方が分かり易い。
神の国のただしきとは何なのか。
その根本が分かっていないような気がする。
宗教が、権力に利用される反省から、近代において宗教と政治が分離されたのだけれども。
日本においては、キリスト教は、遠く江戸時代から、また明治以降は反天皇勢力として弾圧されてきた。
アメリカにおけるクリスチャンの学校がすべて国旗をかかげないのかどうか知らない。
少なくとも、国家とキリスト教と対立している風には見えない。
お互いに良い関係を構築しているのではないだろうか。
日本においてだけ、国家と対立し、天皇と対立している。
その最初に、西洋人の東洋人に対する蔑視、またはキリスト教以外の者を排斥する思想をその中にもつ限り、蔑視されるものは蔑視され、排斥するものは排斥されるという原理によってキリスト教は弾圧され続けると思われる。
徳川時代に、黄檗宗という仏教の一派が弾圧された。
弾圧された理由は、有る将軍が亡くなって、全宗派に亡くなった将軍の供養を命じた。
ところが、黄檗宗だけが、信者で無い者の供養は出来ないと言って拒んだ、
その結果として弾圧されたのである。
最近は、仏教徒である若者もキリスト教の教会で結婚式をあげる事が普通だが、堕落したといえば堕落。大人に成ったといえばそうとも言える。
国家と宗教との関係は、国王は宗教の庇護者であり、国家は一般的に、神の具体的表現として機能する。
日本におけるキリスト教は少数派であるが故に、反国家であり、反権力であるが
多数派になった途端に、権力そのものにならないのかどうか。
そのへんが分からない。
人間の自由、平等、博愛を説きながら、多数の反対者をギロチンで処刑したフランス革命や共産主義革命を見るまでも無く
そこでも、一旦権力を握ると豹変する事が多い。
南米における西欧の侵略は、キリスト教徒によって行なわれた。
神のただしさとはそのような便宜的なものなのだろうか。
神は絶対であるから、その現われとしての愛も絶対である必要があるのではないか。
愛と闘争とは相容れない。
キリスト者は単なる反国家ではなく。
国家の役割をただしく評価し、国家との関わりを見なおしていく必要があるのではないかと思う。
まあ、2女も卒業間際まで単位が足りなくてハラハラさせたが、なんとか卒業だけは出来た。
4年間の遊学(とまではいかなかっただろうが)で何を得たのだろうか。
一人ぐらいは宗教家になってもらいたいと思うところもあって、キリスト教系の学校に入れてみたが、娘は、たいした感化も与えられなかったようだ。
まあ、絶対自由だから、水辺に連れて行く事は出来るが水を飲むか飲まぬかは本人だし。
よしとするか。
卒業式の前の晩から行って、大酒のみ大会と、カラオケ大会と、禁煙の約束と
まあ、親爺のアリバイだけは作ってきました。 (平成12年3月24日)
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