学校評議員とPTA

戻る第三の目目次にもどる
 各地で、学校評議員の導入が始まっている。
学校評議員は主にヨーロッパで民意を教育に反映させる制度として発達した。
 一方PTAはアメリカにおいて発達した制度である。
日本の場合は、評議員とPTAと両方並立させることになった。
アメリカにおいては教育委員会は、どうも郡単位ぐらいに置かれているようだ。
 PTAも全員加入というより奉仕活動のひとつとして任意加入(子どもが学校に居る居ないに関わらず教育に関心があれば加入できる)でボランテイアで運営されている。
全国組織への加盟も個人単位であるようだ。全国組織の決定は下部組織を拘束するようになっているようだ。
 アメリカにおいては、小さい政府を補完する意味でPTAの役割は学校運営の細部に渡って、現場で先生とPTAとが話し合って決めて行く方法がとられている。
民意の反映として、教育委員会を補完している。
日本の場合は、戦後占領軍によって、PTAが持ちこまれたが、教育委員会が市町村単位で組織されていて、細部まで学校の管理が行き届いている日本では、PTAが学校の運営に参画する場面は極めて限定されてしまった。
 むしろ、学校運営にコミットする存在よりも、学校後援会的な役割とか、父親や母親に対する学習の場としての社会教育団体として活路を見出したというより、追いやられてきた。
 戦後日本でも、各種の行政委員会が作られたが、ことごとく官僚組織に隷属される存在に成り下がってしまった。
 最近不祥事続出の警察の監督機構としての公安委員会も、警察に対して管理監督する手段をもたない裸の王様である事が露呈した。
 そういう流れにおいて、今度は学校評議員だと言う。
ヨーロッパにおける評議員は学校の管理運営にたいする決定権をもっているミニ教育委員会としての役割が法的に与えられているところもあるように聞いている。
 ところが、今回出された学校評議員制度は、校長が推薦し教育委員会が承認して任命される。
運営は全て校長が行うことになっている。全体会議を開いても、個別に開いても良い。結論に従っても、従わなくても良い、校長のフリーハンドである。
 いわば、校長の相談役として役割しか与えられていないわけである。
多分都合の良いときだけ「学校評議員が」言っているという言葉を魔術のように使うようになるだろう。  各種の審議会が、お役人が選んで、お役人に都合の良い結論を出すように最初から仕組まれており、その結論も都合の良いところだけをつまみ食いされて来たように、学校評議員もヨーロッパのそれとは似て非なるものになってしまうのではないか。
 地域の声を学校に反映させるといっても、これでは効果があがるのかどうか。
現在の教育委員会の権限、校長の権限をそのままにすれば評議員の出る幕はない。
 校長が推薦するのであれば、おのずから校長に辛口の注文をする人は選ばれない。校長に気に入られた人だけが選ばれるということになるだろう。
第2の名誉職を作るだけではないのか。
 ヨーロッパにおいては、王権に対抗する形で議会が権力を奪ってきた。
各種委員会は議会の意を受けて、行政を監督する役割を担って来た。 各種の委員会を置くということは、委員会の決定で権限を行使する事を意味している。
 それを学校評議員に置きかえるならば、
学校評議員を置くと言うことはすなわち、学校を評価して運営方針を立てることが本来の意味であろう。
評価するには評価基準とデータ−が必要である。
運営方針を立てるということは、その前提として決定に従わせる権限が必要である。
今の学校評議員にはそれらのものは何も無い。
どうするんだろう。
取りあえず色々な問題が多発しているので、校長先生の良き相談相手が欲しいと言うのであれば理解できない事ではない。
しかし、名称は、校長相談役か校長顧問とかにすべきではないだろうか。
あたかも地域の声が反映されかのように喧伝されているが
幻想を振りまくだけのような気がするのだが。
思い過ごしだろうか。
皆さんのご批判を仰ぎたい。
戻る第三の目目次にもどる