神の国発言とキリスト教

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 平成12年5月15日に森総理大臣が神道政治連盟で「日本は天皇を中心とした神の国」と発言したとかで大問題になっている。
5月26日には釈明記者会見を行ったが、一向に収まりそうも無い。
まあ、宗教を政治利用してきた付けが回ったと言うか別に同情するに値しないところであるが、最近ふと浮かんできた考え方があるので、述べてみたい。
 「日本は天皇を中心とした神の国」の本当の意味は、「日本は天皇を中心とした神々の国」というべきだったのである。
日本人は、古来から、人間は神の子孫であると考えてきた。
古代には、古事記などによれば、名前を呼ぶのに○○の命とか○○の比古の命(日子の意味)とか○○の比売の命(日女の意味)とか呼んでいたようである。
すなわち、人々は神の子孫(神の子)としてお互いを崇めて来たのである。
 この精神で行けば、「日本は天皇を中心として、お互いを神として崇め合う理想郷、すなわち神の国」となって、森発言はなんら問題はなくなるのである。
 この精神からは、決して他国を侵略する思想は出てこないのである。
戦前は、天皇だけを神として崇めてきた。
しかし、それは間違いなのである。
 天皇は、文字から素直に解釈すると、天の皇帝すなわち神々の皇帝の意味である。
戦後、外国は天皇と呼ぶのを嫌って、日王とか、日本国皇帝とか、日本をつけて、日本だけの皇帝のように限定するように呼ばれてきた。外務省でさえ日本国天皇などと言っているのである。
 しかし、それは間違いで、天皇の本来の意味は、天井界、地上界のすべての生きとし生けるもの全ての父であり、王であると言う意味なのである。
こう言うと、キリスト教の人は反発するのである。キリストこそ王の中の王であり、天皇はキリストに跪かなければならない言う。
 その理由は、キリストが生まれ変わりの奇跡を行った、神として最高の存在というのである。
生まれ変わるのが偉いのであれば、古事記でイザナギの命は黄泉の国を往復しているのであるから、生まれ変わりと言う面から見てもキリストよりも先輩なのである。
 まあ、神様の概念なんかも、領土の発見とか発明と同じで、早く宣言した方が勝ちである。
キリスト教は、後発の神であるがゆえに本質的に侵略思想を持つのである。すなわち王の中の王ということを自称し、それを認めない宗教を武力を持って滅ぼしてきたのである。
南米のインカなどもキリスト教信者によって滅ばされたのである。今日でもイスラム教との戦いを行っているのである。
日本の建国はキリストが生まれるより700年も先であって、神勅によって建国されたのである。
八紘を一宇と為しの有名な神勅である。
 そのときから、日本国は神聖国家としての理念をもった国として建国されたのである。
すなわち、四方八方、全ての国の人々を一つの家の家族のように考えようという高い理想の元に建国したのである。
 国民同士お互いを神として敬い、外国の人々とも家族のように交際しようというのが本来の意味なのである。
天皇を敬うと言う事は、キリスト誕生よりも700年も前に既に、理念国家を建設し、その理念が現代にも通用する普遍性を持っていることである。
その理念が、すなわち全ての人々と万物に神が宿り、お互いにお互いを敬い、尊重する和の精神が根本思想なのである。
その、和の精神の統合者としての天皇を敬う事なのである。  森総理大臣は、天皇や神を利用しようとした疑いがある。一寸でも、そのような心に歪みがある人には、いくら神社を参拝しても、この真理はわからないのである。
 今回の問題で、キリスト教の牧師と言う人が色んな方面に文書を送りつけているのである。
「キリストは王の中の王であるから天皇に跪け」とそのなかで言っているのである。
なんと言う倣岸非礼なものの言いようであろう。
 また、自らを罪の子として蔑むキリスト者には、常に物事をひがみ目にしか見ることが出来ないから天皇の素晴らしさが分からないのである。
 なぜなら、人間は、自分で自分を何者と思うかで決まるからなのである。
I AM THAT I AM とは、私は私と言うものであるということであり、神の子と思うものは神の子になり、罪の子と思うものは罪の子になるのである。
 キリスト者には、弾圧は自らの狭い心が呼びこんだ事がわからないのである。
天皇は別にキリストに跪けとは言わないのである。ところが、キリスト者は天皇に跪けと公言して憚らないのである。
大和の精神はいかなる神を信ずるものにも太陽のように温かい光を投げかけるのである。
跪けというのもは、自ずから跪く運命が待っているのである。
すべては身から出た錆なのである。
 「天皇国日本」に生まれた幸せというのは、われわれ自身が天の王様に仕える神々であるということである。
 神の子と知らずにキリストを磔に架けた、大罪を犯したと思っているキリスト者は永久に罪の子のままなのである。 天上界から、天皇と言う中心者をいただいた地球人は本当は、生まれた時からすでに神の子なのである。  天皇が神々の王であり、我らはそれに仕える神々であった事を知ったときとき、始めて罪から解放されるのである。
キリスト者はどこまでいっても罪の子であり、神道を信ずるものは信ずる前から神の子であったことに気づくのである。
それがカンナガラ(神惟?)の道なのである。  天皇の行いを自らの手本として生きるとき、神を生きることになるのである。
隠れたところにまします神は、森発言を通して、そのことを国民に知って欲しかったのではないかと思うのである。
 ここまで書いたところで、常不軽菩薩の事を思い出した。人々を仏と見てどんな人でも拝んだ菩薩はそれを理解できない人々によって石を投げつけられたのである。
そんなに心がきれいな人がいることを信じられない凡人には、自分を尊重してくれる人に対して返って疑いの心を起こすのである。
 日本の善意も世界の人々には何か魂胆があると思われるのである。
ペルーのフジモリ大統領も一生懸命やればやるほど疎まれるのである。
真理も強い酒のように水で薄めないと飲めない人もいるのである。
 罪人よ罪人よと呼びかけた方が良いのかも知れない。
しかし、その道は行き止まりであって天国に至る道ではないことを知るべきである。  最初から神の子であるとのおおらかな考え方を持つ神道の考え方によれば、最初から天国すなわち神の国に住んでいる事が分かるのである。 もっと人々にその神意が認識される必要があるのではないかと思う。 ご批判を乞う
(平成12年5月29日夜)

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