OB会の仕事

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 先日、新聞の書評に、現在の都立高校の荒廃は脱偏差値がもたらしたと言う事が載っていた。
 誰でもが、難関校と言われる高校に挑戦出来るようになった。その結果どのようなことが起きたかというと、実力以上の学校に挑戦して落ちた生徒が私立に行ってしまう。今までなら、実力にあった公立高校に入ったであろう生徒が私立に行くようになった。  私立高校が上澄みを取って、残りが公立高校へ行くようになった。 公立高校の荒廃が始まったというのである。
その説が当たっているのかどうか分からないが、一応の説明になっているような気がする。
 都会では、そのように私立に優秀な子どもが行く傾向になっているが、田舎では私立高校が足りないせいも有って、公立高校の方がまだ優位を保っている。
 良かれと思ってやったことが、裏目に出る事が世の中には結構ある。
最近の公立高校の入試は、学力試験でなく推薦で入学する方式に変わりつつある。そのような中で、子どもも親も内申書からの圧力というか恐怖をより多く感じているようである。
 親も子も先生の前では良い子を演じなければならないというのである。
中学生になった途端にPTA活動が低調になる。
目立った事をするよりも減点されない事を考えると言うのである。
 その結果、PTAの会議などでの発言は極力しなくなる。
先生に聞けば氷解するような事でも、教育フォーラムなどのインターネットの掲示板に書き込んでくる。
 PTAが設置した掲示板を覗いて見ると、お利巧な当たり障りの無い発言ばかりである。
 ハンドルネームでも、なんとなく誰が書いたものかが分かってしまう。そんな意識が働くらしい。
 外国では良く学校のクラス単位で先生と保護者が料理を持ち寄ってパーテーを開くと言う事を聞く。
日本では多分成り立たない。直ぐ母親の料理競争になってしまう。
どこかであったように、子どもを巻き添えにした争いに発展するかもしれない。
その結果、料理屋での昔ながらの宴会になってしまう。
折角、先生との交流会をしようとしても、参加者は役員だけになってしまう。
一般会員が参加するとなんか場違いな感じになる。
個人が確立してないと言う事もあるが、隠れた理由がそこにはあるような気がする。
 先生の内申書の実態を知らない親や子どもは、内申書を自分達を撃ち殺す鉄砲のように見えるらしい。 先生は、親から見ると内申書と言う鉄砲を腰に下げているのである。
 拳銃を持った者の前で、打ち解けて話せるだろうか。無礼講と言われても何時拳銃をぶっ放されるか分からない。
そのような、恐怖の感情が働くというのである。
 その恐怖心は、内申書が、どのような方法で作られるのかが、分かっていないところに源があるような気がする。
どのように、公平が保たれるのか。その辺が分からないのである。
 内申書と言うものが、最近の推薦入試の中で重みを持って来ている。
内申書の透明性が確保される必要があるのではないだろうあか。
PTAも50年経った今、そのような切実な疑問を解消する仕事に取り組む必要があるのではないだろうか。
 そうは言っても現役の親には中々、声が上げ難いということがある。
その辺から、OBの出番があるのだが。
長老支配にならないとも限らない。
日PのOB会が設立されたとの話が出ているが、その方向性がどのようなものなのか明らかにされる必要があるような気がする。
その辺が課題である。
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